L・コーガンのシャコンヌとガルネリ・デルジェス
ガルネリは音が見える
「私は、コーガンのガルネリを弾いた事があります。
弾いた途端、そのヴァイオリンの音が、ホール(京都会館・第一?)の舞台から最後尾の壁まで、真っ直ぐに飛んで行くのが見えました。」
もう40数年前になるが、その大柄な高校生は、人差し指を真っ直ぐに前に突き出して、京都会館大ホールの後ろの壁に向って飛んでいくヴァイオリンの音を模しながら、そう私に語った。
彼もヴァイオリニストなので、プロの演奏家の楽器が「鳴る」のは知っていただろうが、予想以上のその「鳴り方」に驚いて、「コーガンのガルネリは、音が見える」と言ったのだった。
その頃、京都市立堀川高校旧音楽課程(日本最古の音楽高校で、現在日本で唯一の公立音楽高校との事)は、まだ平安神宮の西隣接地の武徳殿の敷地内にあり、私は貧乏学生で、その高校で宿直のアルバイトをしていたのだった。当時の岡崎のキャンパスは、現武徳殿とともに旧市立音楽短期大学(現京都市立芸術大学音楽部)も併設されており、両校の校舎とレッスン室が同じ敷地内に点在していて、背の高い木々が沢山ある目立たない静かな一画だった。
私は宿直の見回り時に、敷地内のそれらレッスン室内のピアノを弾いて回るのを秘かな楽しみにしていた。京都は先の戦争で空襲を免れた為だそうだが、この2校には良い輸入ピアノが沢山集まっていた。学生達が下校した夜中などに、無人になったレッスン室の部屋から部屋へ、私は「見廻り」をかねて各室のピアノをガンガンに弾いて廻ったものだった。私のピアノは我流でひどいものなのだが、どのレッスン室も防音工事が施されており、また隣接地は平安神宮だったので、深夜のピアノ騒音問題等はここでは起きなかった。また夏の夕暮れなどには、キャンパスのあちこちで、学生達のグループが思い思いにアンサンブルを組んで練習したりしていて、クラシック好きの私をうっとりとさせる極上の「職場環境」だった。その上高くはなかったが、バイト代まで貰えたのである。
1965年だったか、レオニード・コーガン(Leonid. Kogan)氏が来日し京都に来た時に、日本の若手ヴァイオリニストにレッスンをつけた事があり、前述の高校生はその時に、そのコーガン氏のヴァイオリンを弾かせてもらったと言うのである。
ヴァイオリニストは自分で音を作る。
だから、プロのヴァイオリニストならば、どのような音を出しているのかに、彼または彼女が、どのようなヴァイオリンと弓を選んでいるのかを含めて、そのヴァイオりニストの見識が表れる。そしてこれに異論は少ないと思うが、ヴァイオリニストの作る音が良く判る曲の一つが、重音が続くバッハの「シャコンヌ」だと、私も考えている。
「シャコンヌをどう弾くか」で、ヴァイオリニストを判定している方は多いと思うが、余談になるが、私はピアニストを判定する曲もほぼ決めてある。ピアノに於ける私のリトマス試験紙にあたるその曲は、モーツアルトのKV475のファンタジーとKV457のソナタ、いわゆる「トラットナー・ソナタ」なのだ。ただ、この「トラットナー・ソナタ」については、長くなるので別の稿に譲るとしよう。
コーガンを語らずして、シャコンヌ無し
私が持っている「シャコンヌ」のCDは多くない(録音年)。L・コーガン(1959)、G・クレ-メル(1980)、N・ミルシュテイン(1973)、A・グリュミオー(1978)、D・シトコエヴィツキー(1984)、H・シェリング(1968)、H・ハ-ン(1997)、R・リッチ(1957)、Y・メニューイン(1936)等、10枚にも満たない。こう並べるだけで私のヴァイオリニストに対する好みが分かると思うが、これらの「シャコンヌ」を聴き比べた結果、私は、L・コーガンの「シャコンヌ」が、最も気に入っているのだ。
ネット上には、ヴァイオリニストやバッハの「シャコンヌ」についてのページは沢山ある。ところが幸いな事に「レオニード・コーガンのシャコンヌ」についての記述が、日本のネット上には見当たらない。中には、「コーガンのバッハの無伴奏の録音は存在しない?」とまで書いてあるページもあった。
私に言わせれば「コーガンを語らずして、シャコンヌ無し」である。正に画竜点睛を欠くとはこの事である。
「それならば、日本では俺が書いて置かなければいけねぇ」と思い立った次第である。
コーガンはヴァイオリンならガルネリ・デルジェス(Guarneri del Gesu)を愛用し、2挺も持っていたそうである。(1726年製の愛称「エクス・コラン」と1733年製の「エクス・ブルメスター」)当時、私はそれを知らなかったので、前述の高校生が弾いたコーガンのガルネリは、どちらのガルネリだったかは尋ねなかった。
ところでこの、ストラドバリウスよりも「ほんの少し」小ぶりで、時としてストラドより高価で、ストラドより多くの野心的な演奏家を惹きつけてきたヴァイオリン、ガルネリ・デルジェスとは?こんな楽器だそうである。(1744年製 Cremonaの画像)
緊張感のあるこの楽器についての記述は、今ではネット上にも沢山ある。更に言えばストラド・モデルのヴァイオリン同様、デルジェス・モデルのヴァイオリンも、現在沢山作られている。
このデルジェスは弾く人によっては、ストラディバリを凌ぐ名器となるのは、定評のあるところ。
勿論コーガンのガルネリも、並のヴァイオリニストが弾くストラドを遥かに超えている。
その「ストラドを超えている」と感じたのは、彼のバッハの「シャコンヌ」の録音を聴いた時である (左掲CD:Live 14/2/1954)。ヴァイオリンは彼のガルネリ・デルジェス・「エクス・コラン」の方である。弓はドミニク・ペカット(Domminique PECCATTE)のフレンチ・ボウに違いない。然し残念な事に、現在残っているL・コーガンの録音は、どれも録音状態が良くない。
(←クリックすると拡大します)
この録でもない状態の録音に、L・コーガンの「シャコンヌ」は、「曲の出だしから破綻している」と感じる人があるかもしれない。然し私は、その音の力強さの割に伸びと艶・まとまりがあり、一つ一つのフレーズにも命が感じられて、大変気に入っている。勿論私には、ストラドバリとガルネリの音の違いなど聞き分けられる筈もないのだが、私が気にしているヴァイオリニストは、何故かガルネリを弾いている場合が多いような気がするのだ。
音楽には、聴き手に合う波長と合わない波長とがある。同じシャコンヌを弾くのにもH・ハ-ンのように透明・端正な(悪く言えば18分もかかる貧血気味な)演奏もあれば、H・シェリングのように朗々とした(弾いている楽器がストラドの為か、悪く言えば何が楽しいのか解らないような)演奏をする演奏家もある。どちらも良い演奏で推奨者が多いが、私には今一なのである。
L・コーガンのシャコンヌは力演であるが、悪くいえば腕白小僧が胴間声を上げてガナッテいるような演奏である。ところがコーガンの「シャコンヌ」は、音楽家として「この曲はこのように歌いたい」という、彼の明確な意思・解釈が聴こえて来る演奏なのだ。
G.クレーメルも躍動感のある演奏をするヴァイオリニストであるが、そのクレーメルの演奏をもう少し力強く、緊張感のあふれた演奏にしたようなのが、L・コーガンの演奏なのだ。(G.クレーメルも最近のシャコンヌではガルネリ・デルジェスの[ex.David/エクス・ダビッド]1730年製で弾いている。)
L・コーガンの「シャコンヌ」と並び・超えるような「力演のシャコンヌ」を、私は未だ聴いた事がない。
バッハは、弾いて心地よい音楽なのだ
コーガンの「シャコンヌ」については、こんな事もあった。
以前勤めていた会社で、ヴァイオリンを習い始めた女性が何人かいた。
ある時その内の一人から「同棲していた彼氏と別れた」との話を聞いた。
ところで1996年8月、政治研究家(?)丸山真男氏の葬儀に際して、コーガンに師事したヴァイオリニスト・天満敦子が、哀悼の「シャコンヌ」を演奏した事があった。
私も失恋した彼女を慰めるつもりで、L・コーガンの「シャコンヌ」のCDを贈った。
ところが次に彼女に会った時に、彼女は言った。
「今は傷口を掻きむしられるようで、とてもあのシャコンヌは聴く事ができません。」
一瞬、私は彼女が何を言っているのか解らなかった。
ヴァイオリンを弾こうとする者が、バッハの「シャコンヌ」を聴けなくてどうする?失恋の痛手をヴァイオリンに活かすのなら、究極の目標としての「シャコンヌの名演」を聴き込むのは、一つの方法だろうと思ったのだが・・・。然し、
「他人がくれたCDは、聴かれない」(葡萄の蔓の格言)の通りなのだった。
私は彼女に何も言う事ができなかった。
その通り、彼女の言う事は正しい。
L・コーガンの「シャコンヌ」は聴く人を慰めない。慰めないどころではない、却って聴く方にも、エネルギーを以って聴く事を要求するのだ。
ただ、バッハを弾いた事がある人なら、多くの人が感じている事だと思うが、バッハの音楽の不思議なところは、「聴くよりも演奏する方が、数段心地よい音楽なのだ」という事なのだ。
残念ながら、私が彼女に贈ったこの「本当のメッセージ」は、気付かれずに終ってしまったようだ。
その後彼女がバッハを弾いて、失恋の痛手を癒したかどうかは、残念ながら聞いていない。でもいつか、彼女が真剣にバッハを弾こうとすれば、私が送った「本当のメッセージ」に、彼女も気がつくに違いないと思っている。ただその時彼女は、一体いくつになっているだろうか?
シャコンヌはガルネリ・デルジェスに限る
1982年、58歳でL・コーガンは急死して、もういない。
ネット上では様々な人が、色々なヴァイオリニストの「シャコンヌ」を推奨しているが、
前述の「シャコンヌ」のCDの中では、私にとってはL・コーガン以外は「今一つ」なのである。コーガン亡きあともう四半世紀以上も、私はコーガンの次の「シャコンヌを力奏するヴァイオリニスト」を探している。
これまで色々な演奏家の「シャコンヌ」を聴いてきて思った事がもう一つある。
それはコーガンあたりが、既に何処かで言ってしまっているかもしれないが、「シャコンヌを弾くにはストラドでは弱いのではないか?」という事なのだ。特に弓を強く引く時に、ストラドは音が割れ、音がザラつく傾向があるような気がする。その点ガルネリは、音の広がりがストラドより少ない分、強く弾いた時にも音のまとまりが良いように思えるだ。これと思うヴァイオリニスト、特にストラド(1716年製のex.Goldmann)でシャコンヌを力演した、N・ミルシュテイン(1992年没)のようなヴァイオリニストに会えたなら、是非尋ねて見たいものだ。
「シャコンヌを、ガルネリ・デルジェスで弾いてみたいとは思いませんか?」と。
<追伸>
2008年1月、愈々五嶋みどりがバッハの「無伴奏ソナタ2番」のCDを出した。
なかなかの好演である。彼女もヴァイオリンはガルネリ・デルジェスにした(ある社団法人が、1734年製の[ex.Huberman/エクス・フーベルマン]を彼女に終身貸与した)そうである。
私は、次の彼女のバッハのアルバムは、「無伴奏パルティータ3番」と予想しているが、
「無伴奏パルティータ2番」、その内でも特に「シャコンヌ」の発売を楽しみに待っている。
それも「彼女のガルネリ・デルジェスで弾いてもらえたら嬉しい!」と期待しているのだが・・・。この願い、私が生きているうちに叶うだろうか?
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